笑顔だ。笑顔を作るんだ。
私がお父様から最初に習ったのは、フォルテールの弾き方でもなく、音楽の基礎で もなく、そんなことだった。 いつからか私は、笑顔を忘れていたのかもしれない。いや……いつか、なんて曖昧 な時期ではなく、それは確かに、私がこの家に来てからのことだった。  この家?  ここはどこなんだろう?  私は本当にそこにいるんだろうか?  ここは私の家じゃない。私の家はどこ? 私はいったいどこにいるんだろうか。  家。住む場所。家庭。家族。少なくとも十年くらい前までは、私が住んでいたのは 今思い出している綺麗で大きな家ではなかった。  違う。ここは、どこなんだろうか? もしここが今の私の家ならば、どうして私は 無理をして笑顔を浮かべているんだろう?  音。音が聞こえる。 なにかを伝えようとする、はっきりとした言葉が。 緩やかな旋律に揺られるように、それは曲の形を取り始める。  でも――嫌だ。この曲は。この曲だけは、聞きたくない。歌えない。歌いたいのに 優しいこの音を聴くだけで私の喉はこんなにも震え、歌うことを欲しているのに。  暗い。光は目から入ってきているはずなのに、この部屋はどうしてこんなに暗いん だろう?  でも、そんな疑問は疑問としてではなく、視界に映る残光のように、流れては、
そして消えた。  時間は意味をもたず、世界もまた、意味をもたなかった。  フォルテールの音は、なおも途切れない。そして、瞳の中の光景は移り変わり、
見覚えのある人の顔をまざまざと映し続けた。  そして私も、笑顔を浮かべ続ける。  でも私は、その笑顔を……無表情と同じ意味であるところの笑顔を永遠に浮かべ続 けていることはできなかった。優しい顔。優しい声。それが誰かはわかっているはず なのに、名前がでてこない。 「……ごめん、ちょっと、今は話せない」  そして、彼が泣きそうな顔をした。 「いや……いい……んだ。……だいじょう……ぶ、だから」  そして私は、泣きたくなる。どうして私はここでこんなことをしているんだ、と。 「……あ……く……クリス……」  名前を呼ぶ。喉が痛む。私はわけもわからずに手を伸ばす。実際は、手を伸ばそう としただけだった。それでもその誰かは、すっと私の手を取って、もう一度泣いた。  彼の名前はもう、泡のようにはじけて消えて、私の口から出てくることはない。 それでもその記憶は、私の中に、消えない傷のように残り続けた。

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